泉かむりの里の食と農を育んだ歴史

藩政時代より、福岡・朴沢・西田中・根白石・小角・実沢の6つの村があった泉かむりの里。水田の開削が可能な平坦地は1800年代に大部分が開発されたと言われる。
明治22(1889)年にこの6村が合併して「泉嶽村」となり、明治30(1897)年に「根白石村」に改称された。昭和30(1955)年には七北田村と合併し「泉村」に。後に「泉町」、「泉市」となり、昭和63(1988)年に仙台市と合併して現在に至る。
旧根白石村は高度成長期に都市化を抑制する「市街化調整区域」となった。周辺には住宅団地が次々と造成されたが、人々の営みによって現在も団地に隣接する形で広大な里山が残されている。
泉かむりの里の主な農業は「稲作」。
明治42(1909)年の記録では農業生産額の70.3%が米。収穫物は米としてだけでなく、発酵させたり、餅として加工されたり、豊かな食文化を育む元ともなってきた。
農家戸数は明治9(1876)年で444戸、昭和2(1927)年-16(1941)年の記録では588戸から656戸まで増加。戦後、昭和45年の記録には1,415戸とある。高度成長期以降は機械化の影響もあり多くの農家が兼業となった。
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「苗代」(なわしろ、年代不明)の風景。田んぼの 水を浅く張ったところで直接稲の種をまき育苗する伝統的な方法。雪解けの水の冷たさが体にこたえた

実沢地区基盤整備事業最初の田植え(昭和52年)。段差のある里山の地形では基盤整備が整えられないエリアも多かった

田植え機による田植え作業(昭和59年)。農業機械の普及で少人数での農作業が可能になり、兼業化が進んだ

馬によるしろかき(昭和49年)。田植えや直播作業の前に水田に水を入れて土塊を砕き、水平に均一にする作業

大正時代の稲刈風景。人と家畜の力で農作業がおこなわれていた

家畜市場(昭和50年頃)。酪農は副業としても盛んで、当時の農家にとって家畜は生計を営むのになくてはならないものの一つだった

泉ヶ岳・芳の平りんご園(年代不明)。戦後、泉かむりの里ではりんご栽培を始める農家が増えて注目された。芳の平は国指定の開拓パイロット事業の一環として昭和39(1964)年より大規模に行われた

「バインダー」を使った稲刈り(昭和55年)。刈った稲はバインダーによって束ねられ、「はせがけ」で干された

はせがけ(昭和55年)。機械を使わずに稲穂を乾燥させる

■写真提供;故 庄司健治氏コレクション
■参考資料;泉市誌 上巻(泉市史編纂委員会/1986年)

